昨年(令和2年)に母校である埼玉県立豊岡高等学校が創立百周年を迎え、その記念誌『出藍の誉れ』に「繁田家の人々と若松若太夫」という一文を寄稿しました。ここに登場する繁田家は入間郡豊岡町黒須(現在の埼玉県入間市黒須)の豪農であり、幕末から製茶業や醤油醸造を手がけてきました。明治から昭和にかけての当主繁田武平(はんだぶへい 1867~1940)は家業の製茶業を振興するとともに社会教育の実践にも力を注いだ人物です。母校の創設にも深く係わっています。また剣の達人として近隣では有名でした。私の住む狭山市の水富地区と豊岡町黒須とは入間川を挟んで接していたので、繁田が晩年剣道の稽古に水富を訪れ、どんなに屈強の若者がかかっても老体の繁田はものともしなかったと古老から聞きました。また繁田は初代の熱心な後援者でもありました。私が先代のところで写し絵の種板が繁田園の包み紙でくるまれていたのを見て、先代に訪ねますと「昔のお得意さまだったよ」と教えてくれました。初代の日記をもとに繁田と若松の「一芸に秀でた者同士の心の交流」を想いながら書いてみました。興味深いことに初代と繁田とのあいだには渋沢栄一の存在があったようです。
繁田家の人々と若松若太夫
大正14年秋、長年勤めた豊岡町町長を退いた繁田武平は、56歳で家業の製茶業に復帰した。実際の経営は弟等に任せ、対外的な名誉職的役割を担うことになった。このところは11月の豊岡町茶業組合の会合の準備に余念がなかった。「会合の内容はともかく、あとは余興をどうするかだ、あの男を呼んでみるか。」繁田の脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
半年前の4月12日の事である。埼玉県及埼玉県人社主催の園遊懇親大会が王子飛鳥山の渋沢栄一邸で開かれた。明治33年の黒須銀行の設立以来、なにかと渋澤と親交を持ち、県人会の会員でもある繁田も出席した。この日あいにく体調不良のため渋沢の出座は叶わなかった。次第が進むうちに余興として登場したのが、渋沢が日頃何かと庇護している説経節太夫の若松若太夫であった。若松は飛鳥山から程近い滝野川に住んでいた。
若松は紋付き袴姿で登壇。毛氈の上に正座をして頭を下げた。見台を前にして三味線を構えると前弾きから朗々と語り始めた。弾き語りである。当時若松は46歳。埼玉県熊谷在の出身で嘉納治五郎の知遇を受け、東京に進出。都鄙の民衆芸能となっていた説経節を、邦楽音曲として蘇らせた男との触れ込みは耳にしていたが、繁田が実際に語りを聴くのは初めてであった。「流行の筑前琵琶の様でもあり、浪曲にも似ている。義太夫ほどに武張らず聴き心地が良いのは、三味線が軽やかなせいであろうか。弾き語りの間合いの妙は剣道に通じるものがあるな」様々に思いを巡らせながら、知らず知らずに繁田は説経節に聞き入っていた。
11月22日、豊岡町茶業組合の会合は幕を開け、余興に若松は十八番の「弁慶安宅の関」を語った。主催者はじめ100人以上が集まり、盛会裡に終了した。若松の評判もすこぶる良かった。
若松が着替えるのを待って繁田は控室に向かった。繁田は上茶と焙じ茶の二包を謝金に添え、若松に差出し労いの言葉をかけた。「先生恐れ入ります。今日は手を痛めておりまして失礼致しました。」と頭上に頂いて丁寧に納めながら若松は言った。そして風呂敷包から「若松会々会員名簿」と題箋の付いた分厚い冊子を取りだして繁田に手渡した。「この趣旨で説経節を語っております。先生のお名前もいただきとうございます。」繁田が表紙を返すと序文の「若松会趣旨書」の件が目に入った。
「諸芸は何れも娯楽の間に、公徳私徳を誘発して、学校教育と相俟て、精神教育を資くる方針に外ならず…近年盛んに喧伝せらるる、説教浄瑠璃若松若太夫は、声量頗る豊富にして、其術また神に入り…抑も説教節は鄙野淫靡ならず、併も低級者と雖も娯楽の間に正路邪道の紛糾を鑑別し、徳器を涵養するに足る、国民教育上好適の声楽なり」
繁田は尋ねた「これは通俗教育の理念ですね」「左様です。ですから昔の『説経節』を『説教節』として語っております。」序に続く名簿には筆頭に子爵渋沢栄一、諸井恒平と埼玉出身の大立者が、次いで嘉納治五郎、村井弦斎と実際に若松を支援する面々へ続き、政治、芸能、埼玉県関係等多彩な顔ぶれ約八百人が名を連ねている。豊岡町関係では石川幾太郎の弟和助の名も見える。繁田は改めて目を見張り、若松に入会快諾の旨を伝えた。
繁田は再び若松を招聘する機会を探っていた。それが実現したのは、昭和天皇の即位式と大嘗祭の終了した昭和3年11月であった。この月に繁田は御大典祝に合わせて二つの行事を企画していた。一つは18日、繁田が長年教えを信奉している日本弘道会の会合を豊岡公会堂で、一つは25日に82歳の母親千代の天杯授与を一家一門が集まり催す祝賀会である。若松は両日招かれて、18日には「楠公櫻井の駅」、25日には「那須与一」を語り面目を果たしている。
若松の説経節に着目したのは繁田武平ばかりではなかった。繁田家は東北の秋田・仙台等に支店を出し繁田園という同族経営をもって狭山茶の販路を広げていた。当時それを統括していたのが、武平の弟の金六であった。武平より十六歳も年下である。芸術的素質に恵まれた金六は、若松の説経節を狭山茶の宣伝と合わせて公演することを考えた。現在でいえばプロデューサー的感覚の持ち主であったといえよう。繁田武平の再びの招聘より早い。
昭和三年四月一日から四日にかけて秋田、秋田の土崎港の港座・仙台の三か所で公演を計画し実施した。驚くべきはその来客数である。若松の日記によると、秋田では「公会来会者は実に三千有余なり驚く外なし」港座では「是又大入り大入り大入りなり」仙台では「当夜の入りは二千有余ハ有って実に盛会」と秋田と仙台でどのような施設でどのように公演したのか知る由もないが、金六と支店の主人たちの連携により、この催しが成功したことは間違いなさそうである。
金六は狭山地方で歌われてきた茶造りの唄を当時流行の新民謡風にアレンジし、「狭山茶造り唄」として三味線の伴奏で自らが歌いレコードに吹き込んでいる。それを「狭山茶摘み唄」とも称し、狭山茶の宣伝用に百貨店などで流したようである。
昭和三年六月十日、金六が主催する「茶つみ唄の会」が豊岡座にて催され、若松がゲスト出演し「安宅の関」を語っている。
昭和六年八月、金六は「お茶を作る家」という文章を若松に送っている。若松の日記には次の様に記されている。「十日◎午前十時前に、繁田さんより文章届きし故、拝見いたして作曲にかかる、読み返し〱 〱す、(中略)小生は繁田君の申込みの、茶を作る家の作曲中暑い為、はだかで一旦麻地褌一枚で、一生懸命作曲す」若松は発表の二日前に原稿を受け取り、暑中に褌一枚で節付けをしたのであった。
かくして昭和6年8月12日豊岡町豊岡座にて「狭山夜話 お茶を作る家」は繁田園の主催で若松が語ったのである。その筋書きは、狭山会社の失敗で負債を抱えた茶業一家の兄弟が奮闘し、ついには質の良い機械製茶の研究の為に弟を東京に送り出すといった、いわば金六の私小説的な物語である。これに付随する16㎜の映画フィルムも同時期に制作されたらしい。いわば狭山茶の宣伝活動を超えた金六の芸術作品に近いものかもしれない。その後、金六は作陶や新茶道の提唱に傾注するようになっていく。
昭和8年3月21日 若松は豊岡実業学校同窓会にて繁田金六の依頼により「一の谷攻落し」の説経節を披露している。その後若松と繁田家との交流は記録からは窺えない。おそらく経済不況や時局の変化により、説経節が世間から顧みられなくなったことと無縁ではなかろう。
昭和12年10月6日豊岡公会堂で開かれた、日中戦争戦死者の「英霊遺家族慰安会」に招かれた若松は「武人の妻佐藤館」を語り、その足で「繁田武平翁」を訪問している。これが繁田と若松の最後の邂逅となったようだ。
※本文は筆者が現在三代目名跡を継承している「若松若太夫」の初代の記録を基にして綴ったものであり、筆者の想像にて記したところも多いことをお断りしておく。