令和5年5月8日「笑TIME」によせる想い――若太夫日記

 川越で「里神楽 梅鉢会」を主宰する白石さんから連絡を受けた。

「笑タイム」と題して、会をやりたいので出演してくれという。その

ねらいはと訊ねると、今まで3年間のコロナ禍で大きな声で笑えなか

ったので、面白い会にしてお客様に大いに笑ってもらいたいのだとの答

えがはね返ってきた。純粋に里神楽を愛する彼は自ら道具を揃え、

お弟子を養成している。伝統を繋ごうと奮闘している彼の姿には常日頃

から敬服している。このコロナ禍の3年間どんな思いで過ごしていたのか、

お客さん笑ってもらい、その憂さを自分でも吹き飛ばしたいのだろう。私も

同じ気持ちであるから、すぐに出演を快諾した。すると「なんか面白い話あいます

かねえ。」ときた。コロナ前に3回同じ会場でご一緒しているので、説経節

には哀話が多いことは彼も承知している。面白い話といわれて、私は腕組み

してしまった。演目決定には少し時間をもらうことにした。

説経節は哀話であるが、昔から、茶利(チャリ)とか戯作という笑いのネタ

がないわけではない。早速古い台本を調べていると、飯能の大野鐵人さんが

戯作として書き下ろした「狸献上」という話を見つけた。昔話風で滑稽な筋書きは

今回の会にピッタリである。これを起こして、かけることにしてすぐに白石さんに電話した。

これで、説経節、里神楽の熊襲征伐も熊襲の滑稽な立ち居振る舞いが魅力の神楽である。

熊助さんの舟徳も加わり、三徳ナイフのような滑稽な会に仕上がりそうである。

是非お運びいただきたいと切に願う次第である。

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令和4年2月27日 説経浄瑠璃の世界「葛の葉」(2月22日)につきましてーー若太夫日記

 

 

 

 

 

以下のようなご意見をいただきました。

入場者:85名  アンケート回収:26件

 ・本日の公演はいかがでしたか? とても良かった 14件 良かった9件 回答な 3件

 ・具体的な感想があればご記入ください。

「初めて聞きましたが良かったです。又、他の話も聞きたいです。」

「浄瑠璃を本格的に聞くことが出来た時はほとんどないので大変良かったです。最初の説明も良かったです。」

「せつじつな別れの場面や孤葛の葉の子の要請に別れをつげ、孤の形を現わして森へ帰る場面がよかった」

「昨年中止になってがっかりしていましたが、ようやく開催されてよかったです。三味線の音色と太夫の声にひきこまれました。また開催してほしいです。」

「三味線と語りのリズムが大変よく、すんなり物語りに集中できました。また来たいです」

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令和4年2月9日 説経浄瑠璃鑑賞会(1月22日)につきましてーー若太夫日記

 

 去る1月22日の説経浄瑠璃鑑賞会につきましては、お出でいただきました皆様。

主催の板橋区の皆様また、ゲストの古屋和子さんに大変お世話になりました。

特にこのような状況下で、主催の板橋区の皆さんには本当にご苦労をおかけしたと思います。

ありがとうございました。

 当日の資料やお客様のメッセージなど徐々に掲載いたします。

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令和3年5月3日 「説経浄瑠璃楽譜集(1)」の刊行ーー若太夫日記

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『説経浄瑠璃楽譜集(1)』発刊にあたって                         

 説経浄瑠璃若松会 若 松 若 太 夫

説経浄瑠璃(説経節)に接して、先代に入門したのが、平成元年(1989)ですからもう四半世紀以上も昔の話になります。入門して最初にお稽古する曲が「御祝儀宝の入船」です。いわゆる御祝儀曲ですが、きっちり演奏すると約15分かかる初心者には難しい曲です。

 稽古はまず台本作りからはじまります。先代が「御祝儀」の詞章を口ずさむのを書き留めて、家に帰って清書します。半紙一枚で二頁分とします。一頁あたり五行ないし六行で詞章を毛筆で書き節(フシ)の印を朱墨で振り、表紙を付け綴じて完成です。つぎは読みの稽古になります。台本を素読みし抑揚が違わずにすらすらと、流れるようになるまで読み込む練習です。それが形になってくると、語りの稽古に入ります。師匠が付けてくれる爪弾きの三味線に合わせて、語りの節廻しや間を少しずつ学んでいきます。悪いとその都度指摘され、直しては語るの繰り返しで、それが師匠の許しが出るまで続きます。一段あげるまでに相当時間がかかります。基本的には相向いで、マンツーマンで行うのが伝統的な稽古方法なのです。

 平成5年頃から板橋区立郷土芸能伝承館でお稽古をさせていただく様になり、当時の同好会の皆さんに説経節を指導する立場となりました。しかし従来の伝習方法には一理も二理もあるものの、もともとマンツーマンの稽古を前提としたもので、数人のキャリアの違う皆さんに説経節を学んでもらうには、なじみずらいと感じてきました。しかし幸い同好会の髙澤穣さんが三味線譜を制作され、長い間それを使用しつつ、語りと三味線の稽古を続けてきました。

 多様化の時代といわれる昨今ですが、説経節のような古典的な芸能を稽古してみたいと思う人も少なくなり、また志す人があってもそのキャリアや目指すところもまちまちなのが現実です。稽古する皆さんがよりどころとなる教本があれば、それらの間隙(かんげき)が少しでも埋められるのではと知恵を絞り、語りの旋律と三味線の奏法の併記がもっとも効果的と考え、この楽譜集に至った次第です。

 関係各位のご助力により、旧知の大島純子さんにお願いして採譜を進めていただきました。しかし作業を進めるうちに実際の演奏をそのまま採譜しても、教本には適さないことが判りました。それからは節(フシ)も三味線もその基本型を探り出して記していきましたが、それには相当の時間がかかりました。無理なお願いにも関わらず大島さんは何回となく伝承館に足を運んで、基本型の確定にお付き合いいただきました。そしてようやく基本的な語りと三味線をミックスした楽譜集が完成いたしました。

 これからこれを稽古の場で試して、よりよいものへと改善しつなげていきたいと思います。また学校教育、社会教育等あらゆる学びの場で活用を模索していただければと思います。説経節の基本を採譜しますと、どこかしら語りの旋律が歌謡のように聞こえます。もともと説経節の原型である説経祭文には歌謡的要素もあったようです。「説経節を歌う」という試みも成立するかもしれません。どうかお手に取られた皆様、活用につきましてご助言いただきます様お願い申し上げます。

 最後になりましたが、この度の発刊につきまして採譜にご尽力いただきました大島純子さん、また種々ご指導をいただきました、さいたま民俗文化研究所の大舘勝治所長、採譜について練習室をご提供いただいた板橋区郷土芸能伝承館をはじめ、ご指導ご協力いただきました多くの皆様に御礼を申し上げる次第です。

※希望があれば実費にて頒布します。メールアドレスwakatayuu@ozzio.jpまでご連絡ください。

  

                                                  

令和3年5月1日 「繁田家の人々と若松若太夫」ーー若太夫日記

 昨年(令和2年)に母校である埼玉県立豊岡高等学校が創立百周年を迎え、その記念誌『出藍の誉れ』に「繁田家の人々と若松若太夫」という一文を寄稿しました。ここに登場する繁田家は入間郡豊岡町黒須(現在の埼玉県入間市黒須)の豪農であり、幕末から製茶業や醤油醸造を手がけてきました。明治から昭和にかけての当主繁田武平(はんだぶへい 1867~1940)は家業の製茶業を振興するとともに社会教育の実践にも力を注いだ人物です。母校の創設にも深く係わっています。また剣の達人として近隣では有名でした。私の住む狭山市の水富地区と豊岡町黒須とは入間川を挟んで接していたので、繁田が晩年剣道の稽古に水富を訪れ、どんなに屈強の若者がかかっても老体の繁田はものともしなかったと古老から聞きました。また繁田は初代の熱心な後援者でもありました。私が先代のところで写し絵の種板が繁田園の包み紙でくるまれていたのを見て、先代に訪ねますと「昔のお得意さまだったよ」と教えてくれました。初代の日記をもとに繁田と若松の「一芸に秀でた者同士の心の交流」を想いながら書いてみました。興味深いことに初代と繁田とのあいだには渋沢栄一の存在があったようです。

 

繁田家の人々と若松若太夫

大正14年秋、長年勤めた豊岡町町長を退いた繁田武平は、56歳で家業の製茶業に復帰した。実際の経営は弟等に任せ、対外的な名誉職的役割を担うことになった。このところは11月の豊岡町茶業組合の会合の準備に余念がなかった。「会合の内容はともかく、あとは余興をどうするかだ、あの男を呼んでみるか。」繁田の脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。

半年前の4月12日の事である。埼玉県及埼玉県人社主催の園遊懇親大会が王子飛鳥山の渋沢栄一邸で開かれた。明治33年の黒須銀行の設立以来、なにかと渋澤と親交を持ち、県人会の会員でもある繁田も出席した。この日あいにく体調不良のため渋沢の出座は叶わなかった。次第が進むうちに余興として登場したのが、渋沢が日頃何かと庇護している説経節太夫の若松若太夫であった。若松は飛鳥山から程近い滝野川に住んでいた。

若松は紋付き袴姿で登壇。毛氈の上に正座をして頭を下げた。見台を前にして三味線を構えると前弾きから朗々と語り始めた。弾き語りである。当時若松は46歳。埼玉県熊谷在の出身で嘉納治五郎の知遇を受け、東京に進出。都鄙の民衆芸能となっていた説経節を、邦楽音曲として蘇らせた男との触れ込みは耳にしていたが、繁田が実際に語りを聴くのは初めてであった。「流行の筑前琵琶の様でもあり、浪曲にも似ている。義太夫ほどに武張らず聴き心地が良いのは、三味線が軽やかなせいであろうか。弾き語りの間合いの妙は剣道に通じるものがあるな」様々に思いを巡らせながら、知らず知らずに繁田は説経節に聞き入っていた。

11月22日、豊岡町茶業組合の会合は幕を開け、余興に若松は十八番の「弁慶安宅の関」を語った。主催者はじめ100人以上が集まり、盛会裡に終了した。若松の評判もすこぶる良かった。

若松が着替えるのを待って繁田は控室に向かった。繁田は上茶と焙じ茶の二包を謝金に添え、若松に差出し労いの言葉をかけた。「先生恐れ入ります。今日は手を痛めておりまして失礼致しました。」と頭上に頂いて丁寧に納めながら若松は言った。そして風呂敷包から「若松会々会員名簿」と題箋の付いた分厚い冊子を取りだして繁田に手渡した。「この趣旨で説経節を語っております。先生のお名前もいただきとうございます。」繁田が表紙を返すと序文の「若松会趣旨書」の件が目に入った。

「諸芸は何れも娯楽の間に、公徳私徳を誘発して、学校教育と相俟て、精神教育を資くる方針に外ならず…近年盛んに喧伝せらるる、説教浄瑠璃若松若太夫は、声量頗る豊富にして、其術また神に入り…抑も説教節は鄙野淫靡ならず、併も低級者と雖も娯楽の間に正路邪道の紛糾を鑑別し、徳器を涵養するに足る、国民教育上好適の声楽なり」

繁田は尋ねた「これは通俗教育の理念ですね」「左様です。ですから昔の『説経節』を『説教節』として語っております。」序に続く名簿には筆頭に子爵渋沢栄一、諸井恒平と埼玉出身の大立者が、次いで嘉納治五郎、村井弦斎と実際に若松を支援する面々へ続き、政治、芸能、埼玉県関係等多彩な顔ぶれ約八百人が名を連ねている。豊岡町関係では石川幾太郎の弟和助の名も見える。繁田は改めて目を見張り、若松に入会快諾の旨を伝えた。

繁田は再び若松を招聘する機会を探っていた。それが実現したのは、昭和天皇の即位式と大嘗祭の終了した昭和3年11月であった。この月に繁田は御大典祝に合わせて二つの行事を企画していた。一つは18日、繁田が長年教えを信奉している日本弘道会の会合を豊岡公会堂で、一つは25日に82歳の母親千代の天杯授与を一家一門が集まり催す祝賀会である。若松は両日招かれて、18日には「楠公櫻井の駅」、25日には「那須与一」を語り面目を果たしている。

若松の説経節に着目したのは繁田武平ばかりではなかった。繁田家は東北の秋田・仙台等に支店を出し繁田園という同族経営をもって狭山茶の販路を広げていた。当時それを統括していたのが、武平の弟の金六であった。武平より十六歳も年下である。芸術的素質に恵まれた金六は、若松の説経節を狭山茶の宣伝と合わせて公演することを考えた。現在でいえばプロデューサー的感覚の持ち主であったといえよう。繁田武平の再びの招聘より早い。

昭和三年四月一日から四日にかけて秋田、秋田の土崎港の港座・仙台の三か所で公演を計画し実施した。驚くべきはその来客数である。若松の日記によると、秋田では「公会来会者は実に三千有余なり驚く外なし」港座では「是又大入り大入り大入りなり」仙台では「当夜の入りは二千有余ハ有って実に盛会」と秋田と仙台でどのような施設でどのように公演したのか知る由もないが、金六と支店の主人たちの連携により、この催しが成功したことは間違いなさそうである。

金六は狭山地方で歌われてきた茶造りの唄を当時流行の新民謡風にアレンジし、「狭山茶造り唄」として三味線の伴奏で自らが歌いレコードに吹き込んでいる。それを「狭山茶摘み唄」とも称し、狭山茶の宣伝用に百貨店などで流したようである。

昭和三年六月十日、金六が主催する「茶つみ唄の会」が豊岡座にて催され、若松がゲスト出演し「安宅の関」を語っている。

昭和六年八月、金六は「お茶を作る家」という文章を若松に送っている。若松の日記には次の様に記されている。「十日◎午前十時前に、繁田さんより文章届きし故、拝見いたして作曲にかかる、読み返し〱 〱す、(中略)小生は繁田君の申込みの、茶を作る家の作曲中暑い為、はだかで一旦麻地褌一枚で、一生懸命作曲す」若松は発表の二日前に原稿を受け取り、暑中に褌一枚で節付けをしたのであった。

かくして昭和6年8月12日豊岡町豊岡座にて「狭山夜話 お茶を作る家」は繁田園の主催で若松が語ったのである。その筋書きは、狭山会社の失敗で負債を抱えた茶業一家の兄弟が奮闘し、ついには質の良い機械製茶の研究の為に弟を東京に送り出すといった、いわば金六の私小説的な物語である。これに付随する16㎜の映画フィルムも同時期に制作されたらしい。いわば狭山茶の宣伝活動を超えた金六の芸術作品に近いものかもしれない。その後、金六は作陶や新茶道の提唱に傾注するようになっていく。

昭和8年3月21日 若松は豊岡実業学校同窓会にて繁田金六の依頼により「一の谷攻落し」の説経節を披露している。その後若松と繁田家との交流は記録からは窺えない。おそらく経済不況や時局の変化により、説経節が世間から顧みられなくなったことと無縁ではなかろう。

昭和12年10月6日豊岡公会堂で開かれた、日中戦争戦死者の「英霊遺家族慰安会」に招かれた若松は「武人の妻佐藤館」を語り、その足で「繁田武平翁」を訪問している。これが繁田と若松の最後の邂逅となったようだ。

※本文は筆者が現在三代目名跡を継承している「若松若太夫」の初代の記録を基にして綴ったものであり、筆者の想像にて記したところも多いことをお断りしておく。

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