説経節若松派の歴史

ウィキペディア投稿済み

初代若松若太夫(1874~1948)
本名は松崎大助。埼玉県熊谷市石原出身。父は貝祭文の名手であった。11歳の時に騎西町外田ケ谷(埼玉県加須市)の日暮龍卜に入門。若松崎太夫を名乗る。後に若松若太夫を名乗り、説経節に工夫を凝らし独特の語りを作り出す。
薩摩の門下は副業の傍ら説経の巡業を行っていたが、若松のみが唯一プロとして、芸で生活をしていた。当時たくさんのレコードを残しているのもこの事からわかる。
初代は弾き語りで説経節を語るのを常としていた。語りに劣らずその三味線の音色も天下一品で、初代のラジオ放送を耳にした人は本当に弾き語りであるのか疑うほどであった。初代の三味線についてはいくつかの逸話がある。初代の三味線の音色がよいので人々は「若太夫の三味線には金が使われている」と噂したという。
三味線の音色にはサワリ(糸の共鳴)のつけ方が大きく影響する。初代は小筆の軸の竹を小さく刻んで一の糸筋の上コマの下に貼り付け、一の糸をうまく振動させ、サワリを出す工夫をしていた。これは戦後開発された「東サワリ」の原理であり、それにさきがけて初代は戦前にこの工夫をしており、三味線の音色への追求を怠らなかった。
また初代は従来の説経節の曲筋を自在に変化させて、一流の説経節を創り上げた。それは一朝一夕になったものではない。レコードを年代の古い順に聞き比べてみると良くわかるが、大正から昭和にかけて、徐々に独自の弾き語りスタイルを完成させていったのである。

戦中戦後は、空襲が激しくなりとうとう疎開を余儀なくされた初代は、芸能活動を休止して畑仕事に精を出す。芸能活動一本んで歩んで来た初代には苦渋の決断であった。
敗戦後、研究家により畑仕事をしている初代が発見され第一線から離れていた初代の復活する要因となった。
1946年には六男に二代目若松若太夫を襲名させ、自分は隠居した。その後公演を幾度が行うが急に体力が衰え、食事のままならない状態となった。この時献身的に看病したのは末娘の千鶴子であった。初代は混濁する意識のなかで食事を勧めると、戦時中の食事難の記憶のせいからか「子供の食べる分がなくなるので私は食べません」といって頑なにそれを拒絶したという。
昭和23年11月24日、初代は生家の土蔵の二階で静かに息を引き取った。行年75歳、石原の生家の墓地に埋葬されたが、翌24年多磨霊園にも分骨された。

二代若松若太夫(1919~2000)
本名 松崎寛(ゆたか)。
大正8年6月24日小石川(文京区)生まれ。

初代若松若太夫の六男。
幼少より父若太夫について興行に参加。
昭和17年若松崎太夫襲名。

昭和22年二代目若松若太夫襲名。
戦後娯楽が復活するとともに説経節が衰退。
その後体調をくずして失明した。
板橋区のホームヘルパーの助力により、若松若太夫師が再起し活動を再開。

昭和57年 東京都無形文化財指定。
昭和59年 板橋区無形文化財指定。
昭和63年 芸術祭賞優秀賞を受賞。
平成2年  ポーラ特賞を受賞。
平成7年  2月先代若松若太夫の名跡武蔵大掾を継ぎ、二代目武蔵大掾を襲名。
板橋区伝承館公演で体調の良いときに小品を語る。
平成12年逝去。

3代目
本名 小峰孝男。

國學院大學在学中に説経節を研究。
二代目若松若太夫師を訪ね説経節を勉強する。

平成2年  若松峯太夫を襲名。三味線名は柏木孝司を襲名。
平成7年  二代目若松小若太夫襲名。
平成10年 三代目若松若太夫を襲名。
平成12年 2月25日東京都無形文化財保持者認定。

現在板橋区を拠点に多数公演に出演中。

「板橋区伝承館」での説経節の会にて説経節の伝承に努めている。

以下編集中

参考文献
東村山ふるさと歴史館発行 初代若松若太夫 冊子
たましん地域文化財団発行 多摩のあゆみ 80号

ウィキペディアに投稿済み