2016年3月20日「説経節を聞こう」福岡河岸記念館――若太夫日記

3月20日、埼玉県ふじみ野市にある福岡河岸記念館で、「説経節を聞こう」という催しが行われました。 ここでは新河岸川の「福岡河岸」の河岸問屋のとても趣きのある建物を、ふじみ野市が整備し一般公開しています。 河岸記念館1

「文化財の建物で文化財の説経節を聞こう」という、しゃれた催しですが、会場が20畳ほどのスペースですので、定員30名の事前申込制でした。3月1日から受け付けがはじまり間もなく満席になりました。 さあ開演の1時半になりました。ふじみ野市の方々のご挨拶に続いて、「東京都無形文化財の若松若太夫さんです。」と私の紹介、すかさず「東京都ムゲイ文化財の若松です」とウケをねらったのですが、私がしょっぱなから冗談を繰り出すとはお客様も思わなかったようで、しらーとした雰囲気が漂います。気を取り直して結城加奈さん「御祝儀宝の入船」でめでたく幕が開きます。

河岸記念館4

引き続き私の登場、説経節を聞くのは初めての方も多かったので、まず説経節の歴史を、中世から近世、初代若松若太夫までかいつまんでお話ししました。 先代のお師匠さんのところで、青木久子さんにご登場いただき、例によって先代との丁々発止をお話しいただきました。

河岸記念館3

次は、「さんせう太夫鳴子唄」です。この日はマイクを使用しなかったのですが、声を発して会場の古民家の響きの良さに驚きました。 外見の佇まいのよさもさることながら、内部の雰囲気もよく、つくづく説経節は古民家やお寺のような空間で語るのがふさわしいのだなあと思いました。20畳ですと定員は30~35人位になりましょうか。恐れ入りました。

河岸記念館2

最後にお客さまからの質問をお受けしまして、丁度予定の3時終了。 めでたしめでたしで締めくくりたいのですが、そうさせてくれないのがこの日記の怖いところです。 「さんせう太夫」の半ばあたりから2の糸のサワリがつかなくなってしまい、調子がずれたかと思い糸巻を調節しましたが、そうではありませんでした。 語り終えてから分かったことは、本番前に前回の教訓(?)から、3の糸は新しくしたのですが、2の糸は消耗部分をずらそうと糸蔵から糸を引き出して調整したのが原因でした。 すこしでも消耗した糸は、いわばバランスが崩れやすく、サワリに影響するのです。 本番前にはサワリは入念に整え、その時に糸は決して引き出さないことを固く心に誓い、 再び反省の日々を送っております。

2016年3月13日秩父人形サミット2016in横瀬――若太夫日記

3月13日、「第5回秩父人形サミット2016in横瀬」が埼玉県秩父郡の横瀬町民会館で、行われました。 「白久の串人形芝居」「出牛人形人形浄瑠璃」「横瀬の人形芝居」の3つの人形芝居が秩父にはありますが、それが一同に会するのがこのサミットです。 私は白久の串人形芝居の地方(じかた)を長年務めていますので、今回も「御所櫻堀川夜討の弁慶上使」を語らせていただくこととなり、試行錯誤を続けました。

今回字幕をスクリーンに写す試みもあるので、語りの詞章の突合せと、現代語訳の検討もしてみました。 ご存じの通りこれは義太夫の名高い演目なので、久しぶりに、豊竹山城少掾師匠のCDを出して、よ~く聴きました。 さすが山城師匠の語りは弁慶の位取りといい、おわさのクドキといい、緻密に計算された語りの数々が次から次へと繰り出される、素晴らしいものなんです。 なんとなく私も山城師匠的な気分で詞の言い回しなど稽古をしましたが、フシにかかると説経でやらなければならない、説経のフシは比較的軽妙なのでバランスがなかなか難しいのです。

それはさておき、当日リハーサルも済んで、本番になります。緞帳が開いて、物語が進みます。語り出すとともに人形の演技が始まります。 弁慶は頼朝から謀反の疑いをかけられている卿の君(義経の細君)の身代わりに腰元の志のぶを手にかけます。 しかしそれは弁慶とおわさとの間にできた子、つまり弁慶の実の娘だったのです。

とうとう弁慶は自分の下着の振袖を出して、十七年前に仮寝の契りを交わしたおわさと名乗り合う場面、そのいい場面でナント3の糸が切れてしまったのです! こういう時に弾き語りは困ったもので何とか糸を繋ぎましたが、その間シラーッとしてしまいました。からくも語りおさめましたが、たくさんのお客さんや人形座の皆さんに大変なご迷惑をおかけしたのはいうまでもありません。大変申し訳ございませんでした。 あまりしくじりばかり続くとこの日記も「若太夫のシクジリ日記」と改名するようになるかもしれません・・・。 次のページ‼に希望をつないで、前回同様ひたすら反省の日々を送る今日この頃です。

2016年2月2日 寒稽古——若太夫日記

「声をつくる」ことを考えつつ生活していますが、 声の鍛錬にも時期があるとおもいます。
 
小寒から 立春までの約1か月間の「寒(かん)」に集中して行う、いわゆる「寒稽古」が一番効果があがります。
ちなみに「声をつくる」というのは、つくり声をすることとは違います。かたくいえば自分の声を確立することです。

私が声の寒稽古を思い立ったのは、
「寒になると 毎日川のほとりに行き、 体が冷えるなか、 早く暖かくなろうと、夢中で声を出し稽古した。」
というゴゼさんの体験記を読んで、感じるところがあったからです。

寒の空気にはなんとも凛とした透明感があり、その中で声を出す稽古をしていると、少しずつですが声が伸びていくような気がします。その積み重ねが大事なのだとおもいます。

エラそうなことを書きましたが、今年の寒は雪が残って寒い寒い。昨年の暖冬の影響からか寒さが身に沁み数日間お休み。気を取り直して長靴を履いて再びチャレンジしましたが、立春を目前に風邪でダウンという、ていたらくでした。
立春後にリベンジなんというのは虫のいい話ですかね。

寒声や響き連山遙かなる 艸右

2016年1月16日 説経浄瑠璃鑑賞会——若太夫日記

先代が健在の頃から続いている板橋区主催の「説経浄瑠璃鑑賞会」が16日に行われました。毎年成増のアクトホールでやってきましたが、今年は改装工事のため板橋区立郷土芸能伝承館が会場です。
毎回ゲストをお招きしておりますが、今年はパンソリの金福実(キムポクシル)さんにお願いしました。パンソリの代表的な演目「沈清歌(シムチョンガ)」を太鼓の申貞媛(シンチョンウオン)さんとともに演じていただきました。

パンソリはそのテーマが説経と似ているところがあります。親子の別れ、再会。盲目の身の開眼などのテーマです。
ベースは仏教からのものと思われますが、韓国は儒教の影響が強いので親孝行などの思想もちりばめられています。
初めは普通の話し言葉ですが、徐々にフシにかかっていくところなど、やっぱり日本の語り物に似ていると思います。
その極め付きが「嘆き」のところです。語りでいえば「クドキ」ですが、その「嘆き」が並大抵ではない迫力で・・・。
キカせるんです。キムさんには大変な熱演をいただきました。ありがとうございました。

めでたしめでたしでこの項を閉じたいのですが、若太夫日記、説経浄瑠璃鑑賞会ということですと私のことにも触れなければなりません。「小栗判官一代記 照手姫二度対面の段」を語りましたが、正直どうも話しが今一つお客さんに伝わっていかない感じではじまり、結局最後まで挽回できませんでした。あのような時には、途中で目先を変える何かが必要なのかもしれません。私の技量不足を痛感した次第です。寅さんではありませんが、その後ひたすら反省の日々を送っております。
・・・・・・以上。

2016年1月9日 浅草宗吾殿初護摩 ——若太夫日記

千葉県成田市の宗吾霊堂は佐倉宗吾の霊を祀ったお寺として有名ですが、その別院「浅草宗吾殿」が台東区寿三丁目にあるのをご存知でしょうか。江戸時代に宮川藩堀田家の下屋敷が寿三丁目周辺にあり、宗吾の百五十回忌に際して屋敷内に宗吾を祀り祠を建てたそうです。

維新後は誰でも参拝できるようになり、浅草という土地柄から信仰を集めましたが、戦災で焼失。昭和28年に再建されました。境内には歌舞伎座や明治座と刻まれた門柱などが残り芸界からの信仰の名残が現代に生きています。
現在高層ビルに囲まれた宗吾殿ですが、往時のたたずまいをいまに伝えています。日本芸能史の一コマとして永く記憶されるべきものと思います。

昨年の暮れにふとしたことで宗吾殿のことを知った私は、1月9日に行われる初護摩に参加させて頂くことになりました。 午前11時、町会の皆さんがお集まりの中、宗吾霊堂からご出張の僧侶によって読経、護摩祈祷がはじまると、私も護摩の炎に説経節復興の願いを込めました。

終了後、寿三丁目東町会の会館に移動しての直会にも参加させていただき、また町内に祀られる三峰講の御社にもお参りさせていただきました。説経節と三峰神社も関わりが深いので、不思議なご縁を感じました。 都会の真ん中にもいまだに昔からの信仰が息づいていることに驚きました。
寿三丁目東町会の皆様には大変お世話になりました。ありがとうございました。

初護摩の炎振り立ち宗吾霊  艸右

浅草宗吾殿1
浅草宗吾殿

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