2016年10月1日 上越市直江津「説経浄瑠璃公演会」   ーー若太夫日記

9月30日の深夜、新宿のバスタを初めて利用した。大型バスターミナルが、忽然と新宿に出現していた。その巨大な様相に驚きを禁じ得なかった。金曜日の特に月末のこともあってか、老若男女混雑し、待つ客も多い。掲示板はくるくるとバスの便名、行先、発車場所をひたすら繰っている。発車を待つこと約1時間、23時10分発直江津駅前行のバスに三味線のケースを抱え、ようよう乗り込み、体を横たえた。

身の置きどころを得た安堵感からか、バスの不定周期の揺れも、周りの人の息づかいも気にならず、すぐ眠りに落ちついた。目が覚めたのは朝方5時頃。バスは関越道から上信越道に入り、上越インターチェンジを降りて、高田駅前に着いたときだ。まだ薄暗い駅舎と降り立った若者が車窓に浮かぶ。

バスが直江津駅前に着いたのは、月が改まった10月1日、5時40分頃だった。今回の公演でお世話になる佐藤和夫さんが、既に車でお見えになっていた。佐藤さんは直江津で「北越出版」を経営され、その傍ら直江津の歴史研究や、まちおこしについて主導的に関わっていられる。

平成14年には真行寺というやはり直江津のお寺で「さんせう太夫」と「弁慶勧進帳」を語らせていただいた。秋の十一月であったと思うが、その日快晴だった空が、急に曇り風雨が激しく境内の土を叩いた。雹まじりであったかと記憶している。その時お寺の奥さんの「これが直江津の気候なんです」という言葉が今も耳に残っている。

十数年ぶりに佐藤さんにお目にかかり、感慨一入。ご挨拶もそこそこに駅前の附船屋旅館さんで一息入れることにした。実は佐藤さんは私が朝早く到着することを知って、休憩所を手配してくれていたのだ。畳に敷かれた布団に勝るくつろぎはない。おかげ様で仮眠と朝食を摂ることができた。

しばらくすると、午前中のうちにと佐藤さんが再び車で現れ、市内を案内して下さった。直江津は、さんしょう太夫の伝説の地、説経節のモチーフになった中世都市だ。興味は尽きない。佐藤さんは高田の寺町のある寺の門前に車を止めて、私に言った「この寺に山岡大夫の墓といわれる祠があるんですよ」。木立の深い参道を入ると本堂の右手に墓地が広がり、その中に山岡神霊位と掲げた木口のよい祠が建っていた。妙国寺という、日蓮宗の寺院である。

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聞くところによると、説経節のさんせう太夫をモチーフとした「婆相天」という能が、平成11年、上越市制施行30周年を記念して復活上演された。その際にこの祠も新たに建てられたという。さんせう太夫の山岡大夫は、名うての人買いであるが、婆相天に登場する「問(とい)の左衛門」は商売人ながら、陰の人買いという設定らしい。

山岡大夫の小ぶりな石像は、いまでは難病除けや、商売繁盛に御利益があるという。その前世での行いからか、いかめしい鬼神の容貌のようであるが、どこか憎めないユーモラスな雰囲気を漂わせる。

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佐藤さんはなおも車を走らせ、戦国の名将上杉謙信の居城であった春日山城や、越後国府跡の五智国分寺などをご案内いただいた。国分寺から海岸に出る。居多ケ浜である。この浜は京都から流された親鸞が上陸した地。承元元年(1201)、35歳の時という。それから7年間を親鸞は越後で過ごしている。

そこから浜に沿って直江津の市街に向かう浜沿いから町を眺めると、かつて北前船の寄港により繁栄した様子が時間を超えて浮かんでくる。関川が日本海に流れ込む河口が直江の津である。その堤防沿いの一角を盛り上げ、竹垣で囲った中に、安寿と厨子王そしてうわたきの墓と伝えられる五輪塔が建っている。かつては河口より少し上流の荒川橋のたもとのあったが、河川改修により現在地に移されたという。

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またその下には森鷗外の山椒大夫の文学碑が建っている。黒御影を穿った立派な碑で、比較的新しく2009年に建立されたものである。題字の山椒大夫、鷗外森林太郎の文字も自筆原稿からとったもので格調が高い。

以下、碑に刻まれた冒頭を引く。「ここは直江の浦である。日はまだ米山の後ろに隠れていて紺青のような海の上には薄いもやが掛かっている。一群れの客を船に載せて纜を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で客はゆうべ大夫の家に泊まった主従四人の旅人である。」

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中世、直江津は直江の津または直江が浦と呼ばれた。越後国府の港、日本海を航行する東国と西国の船が行きあう港として、全国に知られていた。関川の河口には直江千軒といわれる多くの町屋が立ち並んでいた。山岡大夫が親子四人を見つけた逢岐の橋(おうぎのはし)は今の直江津橋の辺りに架けられていたという。

その時代、関川流域は港としてにぎわう一方、河原や中州にはいろいろな職能を持った人が生業を展開し、その中で生活する漂流の説経師がさんせう太夫の話を創作し、語り広めたのではないかと想像をめぐらす。

今回、直江津の地をご案内いただいて、直江津が舞台となる、さんせう太夫の船別れの段を語ってみたいと意欲が湧いてきた。

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佐藤さんに上越市の名所について、案内をしていただいているうち、時間が迫ってきた。会場の西本町にある泉蔵院さんに荷物を持ってお邪魔することにする。控室にと庫裡の茶室を用意してくださった。

泉蔵院さんは真言宗豊山派のお寺で、開創は大同3年(808)と伝え、本尊は弘法大師の御作という地蔵菩薩である。立派な本堂を会場として使わせていただいた。14時に開場すると大勢のお客様がいらして、開演の14時30分になると、本堂は御覧の通り満席となった。

佐藤さんに今回の説経節公演の演目「さんせう太夫」と「安宅の関」について解説をいただきつつ、説経節公演会が幕を開いた。

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まずは、本尊様に一礼して、「安宅の関」から語る。

『義経記』によると、奥州へ逃れる義経一行は、北陸道の途中の直江の津を通りかかり、花園観音堂(観音寺)で、笈の中身を追及されるという場面があるが、そらが能「安宅」の義経主従追及の一つのモチーフのとなったようだ。義経ここから海路を進むが、当時直江の津が海路を含めた交通の要衝の地であることが浮かび上がってくる。義経主従の伝説にとって直江津は大事な地なのである。

少し休んで、次は「さんせう太夫鳴子唄」を語る。

お客様は静かにしみじみと聴いて下さった。泉蔵院さんの本堂は天井が高く、境内よりも幾分高くなっているので、時折参道から吹き上げてくる風が、語ってる私の頬を気持ちよく撫ぜ、励ましてくれた。

今回の公演では、「まちづくり直江津」の皆様をはじめとして、大勢の皆様にお世話になりました。また公演に際しまして、立派なチラシを作成していただきました。あらためましてお礼を申し上げます。

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